知らぬは勇者ばかりなり

【勇者】
 騎士の心を持ち主君に剣を捧げ、勇敢に戦う剣士のこと。

 奇襲により始まった戦の被害は大きく、兵士は疲れ果てていた。その中でも、前線で武器を振るう者の疲労は一際激しかった。生死の狭間を彷徨い、治療に運ばれていく者が後を絶たない。その場で即死する者もいた。辛うじて敵を撤退に追いやった時には、戦火の中心に生者の姿はほとんど残されていなかった。
 戦場に残った数少ない生者の中には、並び立って死者の冥福を祈る二人の剣士の姿があった。配置された場所への敵襲が少なく、被害も軽微で済んだアストリアと、敵味方の区別すら怪しい戦禍の中心で、ただ一人、ひとつの傷も負わなかったオグマ。
 二人の姿はあまりにも対照的で、アストリアはたまらず腰のメリクルに触れた。
 主君にアカネイアの家宝である剣を託された時から、アストリアは視界に焼きついた光景を思い出すことが増えた。
 数年前の戦いで、大陸最強と名高い黒騎士カミュを相手に戦っていた剣士オグマの姿だ。アカネイアの家宝を最大限に使いこなすオグマは、激闘の末、黒騎士カミュを谷底へと追いやった。それこそが、グルニアへの勝利の決め手だった。
 当時マルスの元へ集った者は誰もが理解している。かの大戦の勝利は、オグマあってこそだった。
 そして、当時オグマを強く印象付けた剣は、今、アストリアに託されている。これには、滅多なことでは後ろを振り向かないアストリアも重圧を感じずにはいられなかった。
 メリクルに触れるたび、どうしても頭をよぎってしまう。アカネイアの宝剣を託される資格を己は持っているのか、と。問いかけるたびに胸の奥が苦しく、同時にオグマへの憧れが募った。
「オグマ殿」
 隣で、瞳を伏せて祈る姿に話しかけた。海色の瞳がアストリアの姿を映す。戦の感覚が尾を引いているのか、オグマの目は背筋が震えるほどに冷たかった。戦場に充満する血の匂いが途端に意識され、顔を顰めそうになる。
 次に視線へ注意が戻った時には、オグマは横たわる死体を眺めていた。
 アストリアは、内心で安堵のため息を吐きながら続けた。
「見事な戦いだった。オグマ殿のような勇者がいれば、タリス王国も心強いだろうな。オレも、貴公のようになりたいものだ」
 素直な賛辞だった。けれど、オグマは死体を見つめる憂いある表情を崩さなかった。むしろ憂いを一層濃くして死を見つめていた。
「勇者……か。その肩書きは落ち着かんな」
「落ち着かない? あなたはシーダ姫に忠誠を誓われた勇者ではないのか」
「俺に、そこまでの資格はない」
 断言されたことに、アストリアは唖然とした。
 オグマほどの強者も、出自を理由に存在を認めてもらえなかったのか、と。ひとたび想像すれば、心を蝕むように悔しさが募った。
 仕事を共にするアカネイア騎士団にも、傭兵のアストリアを認めない者が多くいた。身分がない、ただそれだけの理由で、貴族出身の騎士たちはアストリアを見下した。勇者でないと言われるならばまだしも、傭兵としての存在すらも、だ。
 見下されるたびにアストリアは反発したが、思い返せば、それは不安の裏返しだった。己に自信があるならば、蔑む声を無視すれば良かったのだ。他ならぬ主君が、存在を認め、アカネイアの国を守る存在として雇ってくれているのだから。
 アストリアは、オグマに同情的だった。相手の境遇を想像し、勝手に悔しがった。反発したアストリアとは異なり、目の前の勇者は、己が勇者ではないと言い聞かせることで忠義を誓う国の和を守ったに違いない。
 憎たらしい話だ。オグマほど忠義に厚く勇敢な剣士が勇者でないならば、一体誰が勇者になれると言うのだろうか。
 アストリアは、自分自身にも言い聞かせるべく訴えかけた。
「オグマ殿。勇者に出自は必要ない。オレは傭兵だが、同時に今はニーナ様に剣を捧げた勇者なのだ。それは、オレに託されたこの剣が証明している。騎士の心を持ち、主のために武器を取って戦うことだけが、勇者たる資格だ」
「……ああ、お前はそうだろうな。だが、俺は違う」
「何が違うというのだ」
「俺の剣は、汚れている。真っ当な傭兵だったお前にはわからないだろうが」
 うなるような風が砂を巻き上げた。戦場を思い出す砂埃があたりを舞う。次いで、戦場で主君のために振られる力強いオグマの剣を思いだした。入り乱れた戦場の中、誰も侵せなかった孤高の剣。
 確かに、形は風変わりだ。けれど、もしもその剣を汚いと称するのなら、この世に綺麗な剣はない。オグマの剣は、そう断言したくなる、人の目を惹きつける剣だった。
 オグマほどの男がそれに気づけないはずがないと言うのに、彼は事実に目を瞑り、己を卑下することで安寧を得ていた。そこに憧れる者の気持ちなど、少しも考えたことがないのだろう。
 アストリアは拳を強く握りしめた。募っていた悔しさは、苛立ちへと変化していた。
「見損なったぞ。貴公は己が剣の力すら正しく理解できぬのか。オレは、貴公が主君のために剣を振るその強さに憧れていた。なのに、何故……」
 苛立ちをぶつける途中で、柔らかな表情に気づき、はっと息を呑んだ。アストリアの怒りこそが、オグマの望んだところだったのだ。
 静かな瞳が、気勢をそがれたアストリアの顔を映している。
 どうしようもない人だと思った。オグマを勇者であると認めなければ、アストリアは己が勇者であるという誇りを保てない。けれど、オグマは誉高き勇者であることを望まない。
(貴公がその気なら、望むところだ)
 同僚からも度々言われてきたことだが、頑固さで競えばアストリアの右に出るものはほぼいない。意地を通す我慢比べならば、誰もが認める剣の使い手にも負けない自信があった。
「見損なったという言葉は、撤回する。貴公が己を勇者であると認めずとも、オレが勝手に呼ばせていただく。シーダ姫の勇者であると、認めたくなるその時までな!」
 オグマが深く長いため息をついた。大方、呆れているのだろう。話しかけるまで手の届かなかった存在に、アストリアは、ささやかな人間味を覚え始めていた。
「……好きにするがいい。だが、そう長くこの戦争を続けさせはしない」
「戦争が終わっても、貴公の元へ顔を出そう」
「お前ほどの男がアカネイアを離れて良いのか?」
「良くはない。だが、必要ならば仕方がない」
「頑固だと言われるだろう」
「それが私の持ち味だ」
 胸を張ると、オグマは仕方がなさそうに肩をすくめた。
「用もないのに国の勇者を呼び寄せては何かと恨まれそうだ。仕方ない、お前の前では認めてやる」
「案外容易に引き下がるのだな」
「これ以上、押しかけ弟子が増えては困るんだ」
「おかしな理由だな」
 ゆるく口角をあげ、アストリアは腰の剣に触れた。前の大戦でのオグマの姿は、まだ頭の奥にあった。けれど以前ほどの重圧はない。
 資格は心の中にある。アストリアが主君に剣を捧げ、その存在を守るため強くなろうと努力する限り、剣は腰にあって良い。
 アストリアは、話しかける前にオグマがしていたように、失われた命へ祈りを捧げた。
「そろそろ戻るぞ」
 声をかけられ戦地を離れる。
 アストリアは、先に歩き始めていたオグマの背中を追いかけた。